「大砂塵」

大砂塵 (1954)
Johnny Guitar
監督:ニコラス・レイ
原作:ロイ・チャンスラー
脚本:ニコラス・レイ、フィリップ・ヨーダン
撮影:ハリー・ストラドリング
出演:スターリング・ヘイドン、ジョーン・クロフォード、マーセデス・マッケンブリッジ、スコット・ブラディ、アーネスト・ボーグナイン


<ストーリー紹介>
単純な勧善懲悪ではない、ちょっとヒネった西部劇。どちらが善でどちらが悪かは微妙なところ。

ヴィエンナ(J・クロフォード)・・・ 町外れにある酒場のオーナー。野心家。鉄道が開通したら一儲けしてやろうと近所の土地を買い占めている。
エマ・スモール(M・マッケンブリッジ)・・・ 町の実力者。ヴィエンナを蛇蠍のごとく嫌っている。
ジョニー・ギター(S・ヘイドン)・・・ ギター弾き。ヴィエンナの酒場で仕事を貰おうとやって来た。
ダンシング・キッド(S・ブラディ)・・・ いわゆる荒くれ者。ヴィエンナの友だち以上恋人未満。

こういった人たちの物語。

<感想>
ジョーン・クロフォードの目とマーセデス・マッケンブリッジの声が対決する物語。

J・クロフォードの目玉は迫力がある。ふつうに喋っていても怒っているのではないかと思わせるくらい、眼の力が強い。その眼光の鋭さは、おそらく映倫が審査のとき見落としたのであろうが、PG12かR-15クラス。子供たちに見せるべきではない。うなされる。
その目玉の迫力に一歩も引けを取らないのがM・マッケンブリッジの声。「エクソシスト」の悪魔(パズズ)の声に起用されたことからもわかるように、危険な匂いのする声である。常にシャウトしているような感じ。似ている声をあげれば、レニー・ハート(PRIDE英語リングアナウンサー)、あるいは、ジャニス・ジョプリン。

監督のニコラス・レイは、彼女の声の持つ迫力に困っていたのではないだろうか。そう思わせるシーンがある。冒頭の、クロフォードの酒場で二人が口論する場面である。
このときの両者の位置関係は以下のようになっている。1階のホールにマッケンブリッジと町の人々。この酒場に殺人犯が匿われていると、鼻息も荒く乗り込んできている。そして、彼らを見下ろす位置、2階の廊下にクロフォード。
このときカットバックで両者の姿が映し出されていく。同じ大きさのショットで同格に扱ってもよさそうなものなのに、そうはなっていない。クロフォードがミディアム・ショットであるのに対し、マッケンブリッジは(ほとんどが)有志数名とのフル・ショット。
なぜか? もちろん、クロフォード主演の映画である、役柄の存在感を出す必要がある、などの理由があげられよう。しかし一番の理由は、マッケンブリッジの声の存在感がありすぎるためではないだろうか。

映像で同格に扱って「顔+声」の勝負にしてしまうと、いくら脚本で操作しても、動物的なエネルギーのレベルでマッケンブリッジに軍配が上がってしまう。あの声に対抗するためにはクロフォードの目玉を、より強調しなければならない。あのうるさいババァがそんなこと承諾するとは思えない。ならばマッケンブリッジの顔を小さくしよう。

ニコラス・レイがそう考えたとしか思えないのである。
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by beertoma | 2005-05-03 05:52 | 映画


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