『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』 蓮實 重彦

スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護
蓮實 重彦 / 青土社

蓮實重彦のスポーツ批評集。全244ページのうちの約半分(118ページ)が文芸評論家、渡部直己との対話で占められている。話題はサッカー、2002年のワールドカップをめぐる報道についてなど。残りの半分は、プロ野球やMLBに関する文章。

内容は大きく3つに分かれる。
(1)スポーツ批評について (2)サッカーについて (3)野球について である。
このうち、(1)と(3)は読み応えのある内容であるが、(2)のサッカーについては(とくに渡部直己との対話は)、大半が、日曜の朝にTVでやっていた政治評論家の放談とあまり変わらないレベルである。現場で観戦していないためか、プロ野球批評で見せたような説得力はない。

<(1)がこの本の主題なので紹介すると>
(1)では、バブル化した日本のスポーツジャーナリズムを批判している。

新聞やテレビでスポーツが取り上げられることが多くなっているが、日本のスポーツジャーナリズムは「運動」を抑圧していると説く。

(少し長くなりますが引用しますと)

「もちろん優れた選手の海外移籍そのものはよいことだと思うし、もっと盛んになってほしいとさえ思っていますが、彼らをめぐる報道ぶりは、明らかにスポーツ・ジャーナリズムのバブル以外の何ものでもない。そこでは「スポーツはスポーツでしかない」というごく単純な事実が忘れられてゆく。イチローがやっているのも、中田英寿がやっているのも、単なるスポーツにすぎない。彼らはそれぞれの地で、「スポーツをスポーツする」ことの喜びをからだで表現しており、その身体的な表象能力が圧倒的に優れている。それは、まるで天から授かった恩寵としか思えない。だから感動を与えるのです。彼らの身体的な表象能力に、ジャーナリストたちの言語的な表象能力が追いついていない。それは「いまのお気持ちを」といった質問への答えでは到底コメントできない運動の体験なのです。だから、われわれは、バブル化したスポーツを「たかがスポーツ」として語ることで、これまたバブル化したスポーツ・ジャーナリズムの現状を批判しているのです。スポーツは擬似的な文化イベントでもなければ、人生の成功物語でもなく、生活に漠然とした不満を抱く中間層を癒す自堕落な日々の習慣でもない。スポーツとは選手たちの潜在的な資質をさらにおし拡げることで活性化する一瞬の運動にほかなりません。そしてテレビのVTRがくりかえす得点シーンやホームランのシーンからだけでは体験できない驚きの瞬間に立ち会うことの貴重さに目覚めさせてくれるのです。」
「あえていまこそ正論を」(P.190)


<感想>
「世紀末のプロ野球」が、球場に足繁く通って観戦した結果、内から自然と湧き起こってきた言葉を綴っていたのに対し、この本では、言うべきことを無理矢理にひねり出して発言している、という印象を受けた。別の表現をすれば、「世紀末~」は書いたのが誰であろうとそんなこととは関係なく面白い本であるが、こちらの本は、蓮實重彦の著作に慣れ親しんだ人が他の本とともに読んではじめて面白く感じる本ではないだろうか。


<疑問点など>
▲ TV観戦したサッカーの試合について、「両軍の動きはことごとく知性を欠き、想像力に乏しく、何とも醜かった。」(P.8)と書かれてある。
TVの画面はグラウンドの一部しか写していないはずのに、なぜ「美しさ」が全くなかったと判断できるのか? 球技における「知性」「想像力」「美しさ」といったものは、ボールのある場所にしか現われないのか。
▲ 「渡部  才能の愛でられた者が勝つんだというフットボールの真実を、最後の最後に、ブラジルが証明してくれました」(P.80)
こういう発言がよく出てくる。これらは「正論」なのかもしれないが、「そうやって、言い切ることの気持ちよさを味わいたいだけちゃうんかい?」という疑問もわく。
▲ 選手をけなしたりからかったりする発言が多々見られるが、その「表象能力」には芸がない。「これしかない」というけなし方をしていない。
▲ 新聞の一面に何々が取り上げられたからどうのこうの、という発言が何度も出てくる(映画評論でもたまに見かける)。
スポーツジャーナリズムについての本だから仕方ないのかもしれないが、それにしても、きょうび、新聞の一面がそんなに大事かぁ? とも思う。新聞愛が過剰なのでは?
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by beertoma | 2005-08-30 05:37 | 読書


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