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「銭金について」 車谷長吉

銭金について
車谷 長吉 / 朝日新聞社
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本書は私小説作家 車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)の随筆集である。
タイトルの「銭金について」は「ぜにかねについて」と読む。深夜からゴールデンタイムに昇格した番組とは関係がない。
つまり、カナブンのニラ炒めを食べる大学院生のことは書かれていないし、それをレポートする昭和の芸人も登場しない。

ご存じない方のために、車谷長吉という人を紹介してみる。
まず「鹽壺の匙」(しおつぼのさじ)という短編集のあとがきからの引用。

私(わたくし)小説を鬻(ひさ)ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併(しか)しにも拘(かかわら)らず書きつづけた来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。凡(すべ)て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。

もう一つ、本書に収められている「嚢の中」(ふくろのなか)から引用。

編輯者の狡猾さは、書き手である私をおだてるのに、「我われはあなたに不滅の文学を書いていただきたいが故に、こうして陰働きをしているのです。」という風なことを平気で言うが、たとえ人類の未来があと七十年、八十年あるにしても、この地球の五十億年余の歴史においては、ほんの一瞬のことである。近代主義の行き詰まり、にも拘らず近代主義を推し進めて行く以外にないジレンマ、その結果としての資本主義の繁栄、人口爆発、資源枯渇、環境汚染、核燃料政策の破綻、その他、人類がそう遠くない将来に滅亡することは、必然である。そういう時代に私達は生きているのだ。不滅の文学もへったくれもない。

簡単に言ってしまえば、頑固な(関西弁でいうところの「ヘンコな」)人。 一本スジの通った、という生温いものではなく、この人が一本のスジであるような、そんな頑固さである。
私が氏の文章から受けるイメージは、一匹狼のサムライである。いつも死と隣り合わせで気の休まるときがないような人生。
いや、生まれてこのかた、気を休めたことなどないのではないか。
長島JAPANではなく車谷JAPANなら金メダルを取れていたのではないか。
そう思わせるような文章を書く人である。


本書の中に「人殺し」というタイトルの文章がある。編集部からの「十四歳の少年に、なぜ人を殺してはいけないの? と聞かれたら、あなたは何と答えますか」という質問に対する回答である。

とは言うても、問いに答えなければならないとするならば、自分が殺されることを想えば、他者を殺すことはよくないだろう、と答えるほかはない。誰だって死にたくはないのである。併しそうは言うても、他人の痛みがわからないのが、ほぼ大多数の人間の仕業である。人はそういう想像力の乏しい世界虫である。

私はこの「 世界虫 」という言葉に取憑かれてしまった。気に入ってしまった。
検索しても「虫たちの世界 虫の中には」などとしかヒットしないから、おそらく車谷氏の造語なのだろう。
「畜生」と似た意味なのだろうが、「畜生」が一刀両断のもとに斬捨ててしまうのに対し、「世界虫」はどこか一点を、その人をその人たらしめている一点を、ゆっくりと突き刺していくような、そんな印象を受ける。必殺仕事人が簪(かんざし)を突き刺すような。
人間なんてみんな世界虫である、という精神をを忘れずに生きていきたい。


最後に、氏の鋭い姿勢がもたらすユーモアについて触れておきたい。
「直木賞受賞修羅日乗」という日記が収められている。直木賞受賞後一ヶ月間の日々を綴ったものである。
祝いとして誰に何を貰ったか、それに対してどう思ったか、といったことが、実名で遠慮なく書かれている。周りの人たちにとってはたまらないことだろうが、面白い。
筒井康隆にも似たような文章があったように記憶しているが、ここでの作風は、ああいった確信犯・愉快犯的なものではなく、真面目で一途なものであるが故に、たまらなくおかしい。
私は読み進めるうちに笑いがとまらなくなってしまった。声に出る笑いではなく、横隔膜の振動が五臓六腑にまんべんなく伝わるような笑いである。
私と笑いの波長が同じ人にはぜひお勧めしたいのだが、確かめようがないのが残念である。
by beertoma | 2004-09-08 03:46 | 読書


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