カテゴリ:読書( 43 )

『成功する読書日記』 鹿島 茂

成功する読書日記
鹿島 茂 / 文芸春秋
ISBN : 4163590102

<内容紹介>
著者はフランス文学者。
前半の40ページが読書日記の勧めで、後半の200ページは、その実践編として、『週刊文春』に掲載されていた「私の読書日記」が収録されている。(1998~2001年分)

この読書日記の勧めが面白かった。内容を簡単に紹介すると以下の通り。

読書をした時にそれを記憶にとどめる方法として読書日記をつけてみてはいかがでしょうか?

1.長続きさせることが大事だから、簡単にできることから始める。読んだ日時、書名、著者名、購入場所、値段を書くだけでもいい。
2.「これだけの情報しか書かないのは勿体ない。もっと書いておきたい」と思うのであれば、次のことにチャレンジする。
・(ステップ1) 心に残った箇所を引用する。
・(ステップ2) 引用だけでその本を要約する。(= レジュメを作成する)
・(ステップ3) 自分の言葉に置き換えて要約する。(= コント・ランデュを作成する)
3.批評をするにはそれなりの修行が必要。感想かコメントを書きとめるだけで充分。
4.こうやって量がたまっていくと、自分なりの評価の基準ができてくる。

<感想>
読書をしたのにそれが記憶にとどまっていないことほど悲しいことはない、と常々思っていましたので、大いに頷きながら読みました。この本は一年近く前に読んだのですが、この本の内容でさえ忘れていた自分が情けないです。
よってここに内容紹介を記し、脳に刻み付けたいと思います。

実践編での書評は、わかりやすい・読みやすい・面白いと三拍子揃っています。
初版が2002年10月ですので、そろそろ文庫化されるのではないでしょうか。
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by beertoma | 2005-09-06 03:47 | 読書

『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』 蓮實 重彦

スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護
蓮實 重彦 / 青土社

蓮實重彦のスポーツ批評集。全244ページのうちの約半分(118ページ)が文芸評論家、渡部直己との対話で占められている。話題はサッカー、2002年のワールドカップをめぐる報道についてなど。残りの半分は、プロ野球やMLBに関する文章。

内容は大きく3つに分かれる。
(1)スポーツ批評について (2)サッカーについて (3)野球について である。
このうち、(1)と(3)は読み応えのある内容であるが、(2)のサッカーについては(とくに渡部直己との対話は)、大半が、日曜の朝にTVでやっていた政治評論家の放談とあまり変わらないレベルである。現場で観戦していないためか、プロ野球批評で見せたような説得力はない。

<(1)がこの本の主題なので紹介すると>
(1)では、バブル化した日本のスポーツジャーナリズムを批判している。

新聞やテレビでスポーツが取り上げられることが多くなっているが、日本のスポーツジャーナリズムは「運動」を抑圧していると説く。

(少し長くなりますが引用しますと)

「もちろん優れた選手の海外移籍そのものはよいことだと思うし、もっと盛んになってほしいとさえ思っていますが、彼らをめぐる報道ぶりは、明らかにスポーツ・ジャーナリズムのバブル以外の何ものでもない。そこでは「スポーツはスポーツでしかない」というごく単純な事実が忘れられてゆく。イチローがやっているのも、中田英寿がやっているのも、単なるスポーツにすぎない。彼らはそれぞれの地で、「スポーツをスポーツする」ことの喜びをからだで表現しており、その身体的な表象能力が圧倒的に優れている。それは、まるで天から授かった恩寵としか思えない。だから感動を与えるのです。彼らの身体的な表象能力に、ジャーナリストたちの言語的な表象能力が追いついていない。それは「いまのお気持ちを」といった質問への答えでは到底コメントできない運動の体験なのです。だから、われわれは、バブル化したスポーツを「たかがスポーツ」として語ることで、これまたバブル化したスポーツ・ジャーナリズムの現状を批判しているのです。スポーツは擬似的な文化イベントでもなければ、人生の成功物語でもなく、生活に漠然とした不満を抱く中間層を癒す自堕落な日々の習慣でもない。スポーツとは選手たちの潜在的な資質をさらにおし拡げることで活性化する一瞬の運動にほかなりません。そしてテレビのVTRがくりかえす得点シーンやホームランのシーンからだけでは体験できない驚きの瞬間に立ち会うことの貴重さに目覚めさせてくれるのです。」
「あえていまこそ正論を」(P.190)


<感想>
「世紀末のプロ野球」が、球場に足繁く通って観戦した結果、内から自然と湧き起こってきた言葉を綴っていたのに対し、この本では、言うべきことを無理矢理にひねり出して発言している、という印象を受けた。別の表現をすれば、「世紀末~」は書いたのが誰であろうとそんなこととは関係なく面白い本であるが、こちらの本は、蓮實重彦の著作に慣れ親しんだ人が他の本とともに読んではじめて面白く感じる本ではないだろうか。


<疑問点など>
▲ TV観戦したサッカーの試合について、「両軍の動きはことごとく知性を欠き、想像力に乏しく、何とも醜かった。」(P.8)と書かれてある。
TVの画面はグラウンドの一部しか写していないはずのに、なぜ「美しさ」が全くなかったと判断できるのか? 球技における「知性」「想像力」「美しさ」といったものは、ボールのある場所にしか現われないのか。
▲ 「渡部  才能の愛でられた者が勝つんだというフットボールの真実を、最後の最後に、ブラジルが証明してくれました」(P.80)
こういう発言がよく出てくる。これらは「正論」なのかもしれないが、「そうやって、言い切ることの気持ちよさを味わいたいだけちゃうんかい?」という疑問もわく。
▲ 選手をけなしたりからかったりする発言が多々見られるが、その「表象能力」には芸がない。「これしかない」というけなし方をしていない。
▲ 新聞の一面に何々が取り上げられたからどうのこうの、という発言が何度も出てくる(映画評論でもたまに見かける)。
スポーツジャーナリズムについての本だから仕方ないのかもしれないが、それにしても、きょうび、新聞の一面がそんなに大事かぁ? とも思う。新聞愛が過剰なのでは?
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by beertoma | 2005-08-30 05:37 | 読書

『世紀末のプロ野球』 草野 進

世紀末のプロ野球
草野 進 / 角川書店
ISBN : 4041658012

初版の発行日は 1986年7月25日。著者については、「草野進=蓮實重彦」説や「草野進=蓮實重彦+渡部直己」説などがある。内容はプロ野球についての批評集。
80年代のプロ野球について書かれているので、当然、登場する固有名詞は懐かしいものばかり。

私はマゾではないつもりですが、この本を読んでいるとこれまでのプロ野球の見方が否定されて、なぜか気持ちよさを感じてしまいます。
タイガースが優勝争いに参加している今、盲目的に応援してぐったり疲れている今、少しでも頭を冷やすのにピッタリの本です。
阪神の試合についてはとてもこのような見かたはできませんが、それ以外の、結果の気にならない試合の場合には、応用してみたいという気にさせられました。


阪神・日ハム戦を観にいったときのことを思い出します。内野ゴロでベースカバーに走る外野手の動きや、3アウトになった瞬間に守っていた野手たちがいっせいにベンチへと向かう動き、に魅せられてしまいました。あそこにも美しさがあると思います。
(競馬場の正面スタンドで感じる、本馬場入場してきた馬がスタート地点へと走っていくときの美しさも、似ているような気がします。)


素晴らしい本やよってに、ほんでから品切れやよってに、ぎょうさん引用させてもらいました。おおきに、すんまへん。


<著者のプロ野球についての考え方>

・贔屓(ひいき)のチームを持つな
「だがそれにしても贔屓を持つってことは、自分の醜さと限界とを素直に告白するようなものではないか。スポーツの魅力は、まさにそんな醜さと限界を華麗に忘れさせてくれることにある。」(P.136)

・「贔屓チームが勝てば満足」という見方はダメ
「何とも悲しいのは、多くの人が、麻薬のような物質としてプロ野球をみなしていることである。勝たねばならぬもの、高率を残さねばならぬもの、面白くなければならぬものとしてのプロ野球。だが、プロ野球とは、ものではなく、あくまで運動ではないか。われわれが愛するのは、物質としてのプロ野球ではなく、動きとしてあるベースボールなのだ。高校野球よりも、大学野球よりも、実業団野球よりもプロ野球が好きなのは、そこでの動きが圧倒的に高度な美しさを描き出してくれるものだからなのである。」(P.156-157)

・テレビではなく球場で観戦せよ
「プロ野球が好きならば球場にかけつけ立見を覚悟で試合を観戦せよ。」(P.158)

「テレビ中継の単調さは、勝負の推移をひたすら視覚的にしか伝達しようとしない点に有する。球場ではあらゆる感覚が総動員される。」(P.137)

「たとえば、二死ランナー一、二塁での右中間のライナー性の一打。そんな光景を球場で目にした者なら知っていようが、そのとき両チームの選手たちは、野手はいうに及ばず、ベンチの監督やひかえの選手までが総立ちになる。ボールを追う外野手、中継に走る内野手、塁上をかけぬける走者、右手をまわす三塁コーチ。バックアップに走る投手。審判たちも目まぐるしく動きまわる。ランナーをホームで殺すか打者走者を二塁で殺すかの瞬間的な判断。
ほんの十数秒ほどのうちに起るこの複雑な動きを、一目で把握しうる瞳(め)というものは存在しない。 (略)
われわれがプロ野球に求めているのは、こうした瞬間的で複雑な運動である。 (略)
ところがテレビという奴は、この把握不能の事件の現場から見るべき細部だけを切り取って、これに注目せよと強要しにかかる。」(P.160-161)

・プロ野球は単調なスポーツである
「そもそもが野球とは単調なスポーツなのだ。そのことを容認しない限り、ピッチャーはとても完投などできないだろう。ホームベースをめがけて百数十回ボールを投げる。プロ野球の観客たりうる資格の第一のものは、正常な神経の持主にはとても我慢なるまいこの途方もない単調さに苛立たぬことである。
もちろん、その単調さは破られはする。だが、ほんの一瞬、それもあっけないやり方で破られ、あとにはまた同じ単調さが支配する。その意味で、ハイライトシーンだけからなるテレビのプロ野球ニュースほど反ベースボール的なものもまたとあるまい。あれは、そもそも選手たちが自分の姿を見るための番組なのだ。そして今日もまた一日単調さに耐えぬいた彼らだけが、それを見る資格を持っているのである。」(P.59-60)

・プロ野球好きはほんの一瞬のために球場へ出かけていく
「しかし球場で演じられるゲームは、そんな錯覚をさわやかに正当化してくれる。そこではひたすらボールが飛び、人が走るだけである。あるいは飛ばすまい、走らせまいとする意志が球場にみなぎる。走ろうとする意思と走らせまいとする意思がとがしばらく抵抗しあう。何ともこたえられないのは、その均衡が不意に破られる瞬間だ。そしてそれが新たな均衡に達するまでのほんの一瞬の無秩序のために、われわれは球場にでかけてゆくのだ。
勝ち負けならテレビを見ていてもいいし、翌朝のスポーツ新聞を読んでもよい。だが、一つの均衡から次の均衡への唐突な移行の予期しえぬエロチシズムは球場の雰囲気に全身をさらさないと絶対に体験できない。 (略) プロ野球が好きだというのは、そうした空間への官能的な愛着にほかならない。」(P.136)
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by beertoma | 2005-08-26 05:29 | 読書

『古田式』 古田敦也 周防正行

古田式
古田 敦也 周防 正行 / 太田出版

<内容紹介>
スワローズファンの映画監督・周防正行とプロ野球選手・古田敦也との対談集。四部構成。対談が行なわれたのは、2001年の1月と2月。
第一部と第二部は、草野球のエースでもある周防が、憧れの野球選手・古田にさまざまな質問を投げかける。巨人戦のあの場面ではピッチャーにどういう球を要求していたのか、アマチュア時代はどんな選手だったのか、今のプロ野球が抱えている問題は何か、などなど。
第1回目の対談のあと、周防はヤクルトがキャンプをしている沖縄まで出かけていく。古田にキャッチボールの相手をしてもらうためである。キャッチボールといっても、マウンド上から坐らせた捕手を目がけて投げるという本格的なもの。このアマチュアのピッチャーなら誰もが憧れるような体験の、周防によるレポートが第三部。
最後は再び二人による対談。内容はキャッチボールの感想、捕手論、監督論、など。


<この本のいいところ>
古田の野球に対する考え方(の一部)を知ることができる。
対談集なので手軽に読むことができる。読むのに必要なエネルギーは、テレビのトーク番組を見るときくらい。

<この本に対する不満>
マニアの喜ぶディープな対談というよりは、古田敦也入門といった内容となっている。あらかじめ枠が決まっているから仕方ないにしても、基本的な質問はここで済ませたのだから、このあと対談を重ねれば突っ込んだやり取りができて面白さも倍増するはず。全10巻くらいのシリーズにしてほしい。


<引用>
周防 - 映画監督って誰でもできるって知ってます? イエス、ノーをいえればいいだけ。よく監督は自分のイメージがあって作るとかいうけど、それは、そんな振りをしてればいいんです(笑)。
(P.182)


周防 - 昨日、古田さんが「野球は監督がやるものだから」っていったじゃないですか。僕はその言葉に驚いた。映画のスタッフや役者がいう言葉と同じだから。「映画は監督のものだから」というのは、現場の役者からスタッフから全員がいうことでしょ。だから、古田さんの野球に対する感覚とかセンスは、映画に近いのかなと思いました。
(略)
で、古田さんが「野球は監督のものだ」というのは、たぶん、どんな采配にも、正解はないということを知っているからだと思う。
(略)
古田 - だから、結果から見て、あたかもそこに正解があったかのように語る解説者は勝手にいってろと思いますけど。ただ、結果に関して、キャッチャーは言い訳したらアカンですね。
(P.183-185)
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by beertoma | 2005-08-23 03:47 | 読書

『被差別の食卓』 上原 善広

被差別の食卓
上原 善広 / 新潮社

世界各国の被差別の民を訪ね、その独自の食べ物を紹介した本。
アメリカのソウルフード(黒人の家庭料理: 豚もつ煮、なまずフライ、ザリガニ料理)に始まり、ブラジル、ブルガリア(ハリネズミの料理)、イラク、ネパール、日本(あぶらかす、こうごり)、と多岐にわたっている。
文章が読みやすくスラスラと読めてしまう。

あとがきに「閉鎖的でネガティブなイメージをもたれることの多い被差別部落の問題を、自由で世界的な視点から描けば、広がりを得て面白い読み物となり、多くの人たちに知ってもらえるのではないか。」とあるように、世界の珍しい料理の食べ歩きレポートを読んでいるうちに「差別を受けること」に関心が向くように書かれている。


この本は、気軽に読んでもらうことを目的とした入門書だろうから、こういう感想はお門違いなのかもしれないが、もっと突っ込んで書いてもよかったのでは、とも思った。
なんというか、体験したことの表面的な部分ばかり書かれてあったいう印象が残った。


著者にはこれからもこのテーマで書き続けて欲しい。
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by beertoma | 2005-07-23 06:01 | 読書

『文系のための数学教室』 小島 寛之

文系のための数学教室
小島 寛之 / 講談社

<対象>
数学アレルギーの人。数学に苦手意識を持っている人。

<目的>
最前線の数学をわかりやすく紹介することで数学に興味をもってもらう。

<各章の内容>
序章 棒グラフで微分積分読解術
 数式には眺め方がある。数学が苦手な人というのはその眺め方をわかっていない。式をそのまま見るのではなく、イメージに置き換えることが必要である。
 微分・積分の式をイメージに置き換える方法を紹介。

第1章 日常の論理と数学の論理
 日常の論理と数学の論理の違いはどこにあるのか。それは「ならば」のニュアンスの違いにある。日常論理の「AならばB」という文はAとBの間に因果関係を示唆するが、数理論理の「ならば」にはそのようなニュアンスはない。
 小泉総理のスローガン「構造改革なくして景気回復なし」を分析すれば日常論理と数理論理の違いが見えてくる。

第2章 「距離」を規制緩和する話
 「距離」の性質とは何だろう。
それは、d(A,B)=(線分ABの長さ) とした場合、d(A,B) + d(B,C) >= d(A,C) が成り立つことである。
では、この性質を満たすものを「距離」とみなせば、何が見えてくるだろうか。

第3章 民主主義を数学で考える
 「民主主義的な選択はどうやったって不可能だ」ということを数学的に証明してしまったアローの定理の紹介。

第4章 神の数学から世俗の数学へ
 神の存在証明に期待値という考え方を導入したパスカル。
そこから期待値つながりで、オプション取引で使われる「ブラック=ショールズの公式」。

終章 数学は<私>の中にある
 「数学には何の価値があるのか」とよく言われるが、これは「あなたには何の価値があるか」というのと同じくらい残酷な問いである。なぜなら数学は<私>であり、<あなた>であるから。
と始まり、数学が<私>であることが証明されていく。


<感想>
読みやすい。一気に読み終えた。

ただ、こういった本は1冊だけ面白く読んでも効果はない。ここを足がかりに何冊か読まないと、コップの水を砂漠に撒いたようなもので、すぐに何もなかったことになってしまう。

「この1冊で数学アレルギーがすっかり治った!」とバンザイしている自分を期待するのではなく、まず初めの一歩として気楽に読み始めるのに適した本ではないだろうか。


<メモ>
(日常の論理と数学の論理について)
・日常論理と数理論理の混乱は、「数理論理的に真である」ことを「正しい」と表現することにも原因があるのではないか。「正しい」を廃止すれば風通しがよくなるような気がする。

・日常の論理については、以下の説明の方がわかりやすい?

(略)一般に「AならばB」という主張は「AでないならBでない」という言明も同時に主張していることが多い。つまり「AならばB」が「AとBは同値である」、すなわち「AならばBであり、かつBならばAである」ことを意味している場合が少なくないのである。
(足立恒雄 『√2の不思議』 光文社 P.127)
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by beertoma | 2005-07-02 04:57 | 読書

村松恒平 『プロ編集者による文章上達秘伝スクール』

ああ。文章を書くことについて、あなたも悩んだ経験がおありなのですね。つらいですものね。テンパリそうになりますものね。
そんなあなたにお勧めの本がございます。ご存じないと仮定して、ご紹介させて頂いてもよろしかったでしょうか?

この世に「書きかた」についての本は数多くありますが、「書くこと」についての本はなかなかございません。
以下の本たちです。

秘伝 〈プロ編集者による〉文章上達スクール (1)
村松 恒平 / メタ・ブレーン

文章王―プロ編集者による文章上達秘伝スクール〈2〉
村松 恒平 / メタブレーン

書く人
村松 恒平 / メタ・ブレーン


村松恒平氏はフリーの編集者で、「 [プロ編集者による] 文章上達<秘伝>スクール 」というメールマガジンの講師兼編集兼責任者です。
上記3冊は、メルマガでの質疑応答を書籍化したものです。


ああ。どういった感じのものなのか。あなたは読んでみたいと思っておられるのですね。
そういうことでしたら プロ編集者による 文章上達<秘伝>スクール - まぐまぐバックナンバー へレッツ・ゴーなさってください。全てのバックナンバを読むことができます。
例えば、秘伝47号「ネタがないっ!」秘伝48号「4つの関連質問」秘伝34号「速く書きたい!」 などはいかがでしょう。著者の書くことに対する気構えが伝わってくると思います。
あるいは、直接 村松恒平 文章が上達する学校 の門を叩くのもいいかもしれません。


ああ。いちいち読むのが邪魔くさい。貴様の言葉で説明してみよ。あなたはそうおっしゃるのですね。
そういうことでしたら、私なりの紹介をさせていただきます。著者のメッセージはだいたいこんな感じではないでしょうか。

文章というものは吐き出された結果にすぎない。その結果だけをとやかくいっても始まらない。それを生み出す過程で、脳がどのように動いていたか。脳の動き方は硬直していなかったか。そういった部分に目を向けることも必要である。
ただし、脳の構造は十人十色であり、一般論で語るわけにはいかない。悩める子羊たちの質問に解答することを通して、具体例で、書くことの秘密に迫ってみたい。


ああ。あなたにも私にも、書くことに苦しまないですむ日がやって来ますように。
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by beertoma | 2005-06-02 04:52 | 読書

「ミステリオーソ」「ハードボイルド」

ミステリオーソ
原 寮 / 早川文庫

ハードボイルド
原 寮 / 早川文庫

少し前のことになりますが、原尞のエッセイ集「ミステリオーソ」が文庫化されました。

ご存じない方のために少し紹介しておきますと
原尞(はら りょう:「りょう」は「寮」からウ冠を取った文字)は、ハードボイルド小説の作家です。元・フリージャズのピアニスト。寡作で知られている人で、1988年のデビュー以来、長編を4作と短編集1冊、そしてこのエッセイ集1冊しか発表していません。
(長編は「そして夜は甦る」「私が殺した少女」「さらば長き眠り」「愚か者死すべし」、短編集は「天使たちの探偵」いずれも早川書房より刊行)

うまく表現できませんが、地に足のついた文章を書く人です。つまりは、言葉だけが空回りしていない文章、繰り返し読むに耐える文章、コブシが効いている文章、ああ、やっぱりうまく表現できません。いちど書店で手にとって体験してください。

私の最も好きな作家の一人で、小説もエッセイも何度も読み返しています。(最新作の「愚か者死すべし」だけはまだ読んでいません。発売直後に買ったのですが、読んでしまうのが勿体なくて)

今回の文庫化にあたっては、単行本刊行後に発表されたエッセイ、対談なども取り込まれています。1冊には収まりきらないので、「ミステリオーソ」、「ハードボイルド」の2分冊になったということです。前者には自伝的エッセイやジャズや映画についての文章、後者にはミステリや読書について、小説を書くことについての文章が収められています。
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by beertoma | 2005-05-28 05:31 | 読書

「フリッカー、あるいは映画の魔」

フリッカー、あるいは映画の魔〈上〉
セオドア ローザック Theodore Roszak 田中 靖 / 文芸春秋

フリッカー、あるいは映画の魔〈下〉
セオドア ローザック Theodore Roszak 田中 靖 / 文芸春秋

「このミステリーがすごい! 98年度」で海外部門のベスト1に選ばれた作品。文庫本で上下巻あわせて約1000ページの大作です。

ミステリーといっても、私立探偵や刑事、あるいは諜報機関等にお勤めの方々は登場しません。拳銃やナイフも出てきませんし、血が流れることもありません。じゃあどんな話なのか? 主人公のジョナサン・ゲイツが不思議な魔力を持った映画に出会う、それを撮った監督(マックス・キャッスル)に興味を抱く、彼の作品にどんどんのめり込んでしまう、わやくちゃになってしまう、というお話です。
ミステリーというよりは(ある映画ファンの)半生記といえましょう。

マックス・キャッスルは、1920年から40年にかけてドイツおよびハリウッドで活躍した映画監督。もちろん著者の創り出した架空の人物です。その作品に登場する俳優たちも架空の人々なのですが、それ以外の部分では現実の映画史が引用されています。例えばオーソン・ウエルズが登場して彼がいかに偉大な映画監督であったかを語る場面もあります。映画史に詳しい人ほどマックス・キャッスルが実在の人物に思えてしまう仕掛けになっています。

この小説の魅力の一つは、映画の持つ魔力を実感させてくれるところではないでしょうか。
静止画像を1秒間に24コマ映しているだけなのに、スクリーン上にもう一つの現実があるように感じてしまう。考えてみれば不思議なことです。コマとコマの間には、いったい何があるのだろうか。そういった思いにとらわれたのは私だけでないはず。


映画好きな人がミステリー的ミステリーではなく、非ミステリー的ミステリーだと思って読めば、大いに楽しめる作品ではないでしょうか。
(実を申せば、私はミステリー的ミステリーだと思って読んでいたため、途中で少し退屈してしまいました。ストーリーをもう少し短くしても面白さは減らないと思うのですが・・・。あと、一人称単数の代名詞を「ぼく」と訳したのも不満です。)
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by beertoma | 2005-04-28 05:56 | 読書

「優駿」3月号DVD付き

「優駿」が3月号からDVD付きとなったということで遅ればせながら購入いたしました。

過去の名勝負を収録したDVDを付録にするというのは、「サラブレ」誌が一昨年の暮れ(2003年12月号)から行っており関係各方面で話題となっていましたが、とうとう「優駿」もこの方式に乗り出してきました。
JRAの倉庫には莫大なレース映像が眠っているはずです。惜しまずケチらず気前よく、これからもどんどん収録していただきたいです。天皇賞秋でマックイーンが斜行したときのパトロール・フィルムなんかも。(もう一度見たいです)

ただ、ひとつ不満があります。
レースをノーカットで収録してあるのは、もちろん大変ありがたいことなのですが、その前後をカットしすぎではないだろうか、ということです。
たしかに、レースはゲートオープンで始まり全馬がゴールすれば終了です。その部分はキッチリと収められています。文句のつけようがございません。
ただ、レース、特に重賞レースというものは、お祭りです。フェスティバルです。ましてやG1レースともなれば、それ以上の祭典といえましょう。

それを、あなた、ゲートオープンからゴール板ちょい過ぎまでの映像で一丁あがりって・・・。

スタート前は短めでもいいですから、せめてゴール後は1分間くらい余韻を味わわせていただきたいです。
スタート前の期待や予感、ゴール後の賞賛や罵倒、こういったものを含んではじめて、「レース」と呼べるのではないでしょうか。

ディレクターズ・カットでロング・バージョンな映像をお願い申し上げます。
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by beertoma | 2005-03-10 22:24 | 読書