カテゴリ:読書( 43 )

青山南「眺めたり触ったり」

眺めたり触ったり
文・青山 南 絵・阿部 真理子 / 早川書房

青山 南は翻訳家・エッセイストで、とても読みやすい文章を書く人です。
この「眺めたり 触ったり」は読書についてのエッセイ集。有名・無名を問わず、さまざまな人の読書法、読書にまつわるエピソードが紹介されています。

(本を読んでいて気に入った文章に出会うとページの端を折る癖がある、という前フリがあって)

でも、あれって気持ち悪いよ、とぼくとおなじような癖のある男を夫にもったある女性はいった。「亭主が読んだあと、その本を読もうとするじゃない。すると、ところどころ、ぷちっ、ぷちっ、と折ってあるわけよ。気持ち悪いよ、あれ。なんだか、ひとのおできの跡をみせられてるみたいで」
おできの跡とはなかなかいい比喩である。だって、ひとの思い入れって、どこか膿みたいで、他人にはまるでありがたいものではないもの。
「かもね、ぼくにも折る癖があるけど、ひとが折った本を読むのは、そういえば、気持ち悪い」とぼくは答えた。
(P.22)

私にも似たような癖があります。
気に入った文章には赤鉛筆で線をひっぱるのですが、線をひいた箇所が多くなりすぎる場合があって(その本をとても気に入ってしまったということです)、そういう時には「すっごい赤」と「まあまあ赤」の選別をし、「すっごい赤」のページの端を折るようにしています。
でも、小心者なので下の端を折ります。上のほうは、なんとなく恐れ多いのです。

もう一つ引用を。文章の書き方について述べた箇所から。

いつごろからか、文章を書くとき、声にだして読みながら書くようになった。ある分量を書くと、そこまでの分を音読し、変なところを直して、また、つぎの文章に向かっていくのである。どういう箇所が変におもえるのか、うまくはいえないが、変なところだと、舌がからまるのだ。そこを、からまらなくなるまで何度も読み返し、直す。じぶんの文章のときでも、翻訳のときでも、この作業に変わりはない。もうすっかり癖になった。(P.141)
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by beertoma | 2004-11-10 01:21 | 読書

倉橋由美子「最後から二番目の毒想」

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最後から2番目の毒想
倉橋 由美子 / 講談社


倉橋由美子の文章を読むたびに、「さすが中国三千年を生きてきた女性は違う」と思わされる。
もちろん、デーモン小暮ではないのだから実際にはそんなに御高齢ではないのだけれど、行間から三千年の香りが漂ってくるのである。うっかり近づけない気がする。

「最後から2番目の毒想」は、そんな文体がギッシリ詰まったエッセイ集である。何度読んでも飽きがこない。

わ 和魂洋才
明治以後は「和魂洋才」ということがさかんに言われた。しかし文章を書く仕事にとっては、今でも「漢才」は重要である。誰もが平均的な洋才を身につけている時に、決め手になるのは実は漢才である。漱石のように本格的な漢詩が作れるほどの漢才は望むべくもないが、漢文調文体の骨格くらいは体の中に入っていた方がよい。

(P.47 「倉橋由美子のウィット事典」)
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by beertoma | 2004-10-16 01:48 | 読書

伊丹十三 「大病人」日記

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「大病人」日記
伊丹 十三 / 文芸春秋

伊丹十三による映画制作日記としては、他にも「「お葬式」日記」、「「マルサの女」日記」があるが、この本がいちばん面白いのではないか。
他の2冊がおもに撮影の日々について書かれているのに対して、ここではアイデアをシナリオにしていく過程に重点がおかれているからである。思いつきが膨らんでいき最終稿のシナリオへと仕上がっていくプロセスがスリリングである。
創作過程の日記、その日記についての編集者との質疑応答、そして最終稿のシナリオ、が収められている。
映画のほうは物足りなさが残ったのであるが、シナリオは読み応えがあった。(というか、シナリオで読むほうが面白かった。)

かなり前から品切れの状態であるが、ちくま文庫あたりで文庫化してくれないものか。

ひどい舞台裏見せてしまってお恥ずかしい限りなんだけど、でもね、ひどくてもともかく書くことが必要なんだね。われわれ凡才は、創造力と批判力とくらべたら、批判力のほうが強くて楽だし、創造力のほうが弱くて苦しいに決まってるんだから、悩んでたら批判力が勝って永遠に書けないに決まってる。だから、ひどくてもなんでも、書く時には批判力を引っこめて書くだけ書く。(P.69)
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by beertoma | 2004-10-13 01:12 | 読書

減点法と加点法

「文学入門」桑原武夫(岩波新書)からまたも引用します。

よい本とは、初めからしまいまですべて正しい本という意味ではなく、多少の錯覚があっても、正しいところはひどく正しい、という本のことである。そしてわれわれが鍛錬されるのは、むしろそういう本によってである。」(P.28)

つまり減点法で読んじゃダメってことですね。「知的生活の方法」(渡部昇一 著)なんかも、「ここはヘンだぞ」とツッコミたくなるところがあります。
でも、加点法で読めば、得るところ大です。

もちろん、「文学入門」は減点法で読んでも、加点法で読んでも、得るところ大だと思います。
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by beertoma | 2004-10-01 05:45 | 読書

「知的生活の方法」 渡部昇一

某月某日

渡部昇一「知的生活の方法」(講談社現代新書)を久しぶりに読み返す。

手元にある版の奥付には「一九九三年五月二四日第五五刷」と書かれている。十年以上前に発行されたもので五五刷であるから、現在だと八〇刷くらいか。これだけ印刷されていると、ここに書かれているような考え方は日本中の脳に蓄積して、半ば常識となっているのかもしれない。

私にとって大事だと思われるのは次の二箇所であった。

「文体の質とか、文章に現れたものの背後にある理念のようなものを感じ取れるようになるには、どうしても再読・三読・四読・五読・六読しなければならないと思う。何かを感じ取るためには反復によるセンスの練磨しかないらしいのである。」(P.59)

「まず、二、三年前に読んでおもしろかったと思うものを片っぱしから読みなおしてみられるとよい。そしてなん冊か読みなおして、おもしろかったらそれだけをとっておき、また来年かさ来年に読みかえしてみるのである。そうしつづければあなたの古典ができ、いつの間にか読書趣味が鋭敏になっており、本物の読書家の仲間に入っていることになるであろう。」(P.67)

そういや、こういった考え方を忘れていた。赤線まで引いてあるのに。
読書だけでなく、音楽にも当てはまるのだろう。ジャズやクラシックのキモの部分を聴き取れないこと(駄耳)に悩んでいる(というか、コンプレックスを抱いている)ので、しばらくは反復・反芻をやってみよう。
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by beertoma | 2004-09-21 03:14 | 読書

「銭金について」 車谷長吉

銭金について
車谷 長吉 / 朝日新聞社
スコア選択: ★★★★★




本書は私小説作家 車谷長吉(くるまたに ちょうきつ)の随筆集である。
タイトルの「銭金について」は「ぜにかねについて」と読む。深夜からゴールデンタイムに昇格した番組とは関係がない。
つまり、カナブンのニラ炒めを食べる大学院生のことは書かれていないし、それをレポートする昭和の芸人も登場しない。

ご存じない方のために、車谷長吉という人を紹介してみる。
まず「鹽壺の匙」(しおつぼのさじ)という短編集のあとがきからの引用。

私(わたくし)小説を鬻(ひさ)ぐことは、いわば女が春を鬻ぐに似たことであって、私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併(しか)しにも拘(かかわら)らず書きつづけた来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。凡(すべ)て生前の遺稿として書いた。書くことはまた一つの狂気である。

もう一つ、本書に収められている「嚢の中」(ふくろのなか)から引用。

編輯者の狡猾さは、書き手である私をおだてるのに、「我われはあなたに不滅の文学を書いていただきたいが故に、こうして陰働きをしているのです。」という風なことを平気で言うが、たとえ人類の未来があと七十年、八十年あるにしても、この地球の五十億年余の歴史においては、ほんの一瞬のことである。近代主義の行き詰まり、にも拘らず近代主義を推し進めて行く以外にないジレンマ、その結果としての資本主義の繁栄、人口爆発、資源枯渇、環境汚染、核燃料政策の破綻、その他、人類がそう遠くない将来に滅亡することは、必然である。そういう時代に私達は生きているのだ。不滅の文学もへったくれもない。

簡単に言ってしまえば、頑固な(関西弁でいうところの「ヘンコな」)人。 一本スジの通った、という生温いものではなく、この人が一本のスジであるような、そんな頑固さである。
私が氏の文章から受けるイメージは、一匹狼のサムライである。いつも死と隣り合わせで気の休まるときがないような人生。
いや、生まれてこのかた、気を休めたことなどないのではないか。
長島JAPANではなく車谷JAPANなら金メダルを取れていたのではないか。
そう思わせるような文章を書く人である。


本書の中に「人殺し」というタイトルの文章がある。編集部からの「十四歳の少年に、なぜ人を殺してはいけないの? と聞かれたら、あなたは何と答えますか」という質問に対する回答である。

とは言うても、問いに答えなければならないとするならば、自分が殺されることを想えば、他者を殺すことはよくないだろう、と答えるほかはない。誰だって死にたくはないのである。併しそうは言うても、他人の痛みがわからないのが、ほぼ大多数の人間の仕業である。人はそういう想像力の乏しい世界虫である。

私はこの「 世界虫 」という言葉に取憑かれてしまった。気に入ってしまった。
検索しても「虫たちの世界 虫の中には」などとしかヒットしないから、おそらく車谷氏の造語なのだろう。
「畜生」と似た意味なのだろうが、「畜生」が一刀両断のもとに斬捨ててしまうのに対し、「世界虫」はどこか一点を、その人をその人たらしめている一点を、ゆっくりと突き刺していくような、そんな印象を受ける。必殺仕事人が簪(かんざし)を突き刺すような。
人間なんてみんな世界虫である、という精神をを忘れずに生きていきたい。


最後に、氏の鋭い姿勢がもたらすユーモアについて触れておきたい。
「直木賞受賞修羅日乗」という日記が収められている。直木賞受賞後一ヶ月間の日々を綴ったものである。
祝いとして誰に何を貰ったか、それに対してどう思ったか、といったことが、実名で遠慮なく書かれている。周りの人たちにとってはたまらないことだろうが、面白い。
筒井康隆にも似たような文章があったように記憶しているが、ここでの作風は、ああいった確信犯・愉快犯的なものではなく、真面目で一途なものであるが故に、たまらなくおかしい。
私は読み進めるうちに笑いがとまらなくなってしまった。声に出る笑いではなく、横隔膜の振動が五臓六腑にまんべんなく伝わるような笑いである。
私と笑いの波長が同じ人にはぜひお勧めしたいのだが、確かめようがないのが残念である。
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by beertoma | 2004-09-08 03:46 | 読書

「大いなる眠り」 レイモンド・チャンドラー

a0034898_16231911.jpg某月某日

チャンドラーの「大いなる眠り」を読む。フィルムノワールの傑作「三つ数えろ」(監督:ハワード・ホークス)の原作。この映画は、もちろんとても楽しめる作品であるのだが、私の中では何故か「フィリップ・マーロウ = ロバート・ミッチャム」で固まってしまっているので、H・ボガートのマーロウに引っ掛かりを感じっぱなしであった。

原作にも引っ掛かりを感じた箇所があった。マーロウが江戸っ子のような話し方をするのである。例えば、

隣のコーヒー店のにおいが、煤といっしょに窓から流れ込み、私の空腹をさそうようにただよった。私は机からびんをとりだし一杯ひっかけ、腹は減ってもひもじゅうないと見得をきった。 (P.156)

「このとんちき」彼女は叫んだ。
「さよう。拙者はすこぶるりこう者でござる。(略)」
(P.268)

といった具合である。

なぜこのような文体が流通していたのか不思議である。翻訳は双葉十三郎、初版は1959年。当時はこういった訳し方でも受け入れられたのだろうか。
ひょっとして、訳者も読者もサイレント映画を経験していたからなのかな。たしか、サイレント映画では弁士がそれぞれ独自のしゃべり方で解説していたはずである。ガイジンが江戸っ子口調で会話することなどありふれたものだったのかもしれない。だから、こういう文体でも違和感なく読めたのではないか。

ストーリー展開も平均的なミステリのペースで進み読みやすかった。言い換えれば、チャンドラーらしさは「長いお別れ」に比べて少ないのかもしれない。
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by beertoma | 2004-08-16 16:27 | 読書

極上以上

某月某日

立花隆氏の文章について悩む。
先日読んだ、エリック・ホッファー「構想された真実」の帯に書かれていた文句である。

「・・・・その一つ一つが、まるで極上の短編小説以上の仕上がりになっている。」

問題点は2つ。
(1)「まるで極上の短編小説以上の仕上がり」という表現はおかしくないのだろうか。「以上」を省いて「まるで極上の短編小説の仕上がり」とするか、あるいは「まるで」を省いて「極上の短編小説以上の仕上がり」とすべきではないのか。

(2)「極上の」の「極」であるが、これは短編小説界のほとんどてっぺんに位置するという意味ではないのだろうか。それ以上の仕上がりってどういうことだろう。

内田義彦「 読書と社会科学 」(岩波新書)に「本を読んでいておかしいなと思ったときは「信じる」ことが大切である」とある。「信じる」の説明としてこう続く。
「一つには、ここにはたしかに私にこう読めることが書いてあるけれど、それはどうしても変だという、自分の読みに対する信の念が。そしていま一つ。Aさんほどの人が出たらめを書くはずがないというかたちでの、著者に対する、これまた信の念が。」

著者に対する信の念を発動して、帯の文章が正しいと仮定し考えてみる。

すると、短編小説の世界では「極上」という階級のそのまた上に、「超極上」という階級があるということになる。
すると、「極上の~以上」は「超極上の」という意味であると解釈できる。先ほどの表現を置き換えてみるとこうなる。

「・・・・その一つ一つが、まるで超極上の短編小説の仕上がりになっている。」

そういうことだったのか。
こういう揚げ足取りを書くと、肛門極小野郎だと思われるんだろうな。仕方ないけど。
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by beertoma | 2004-08-06 00:38 | 読書

「構想された真実」 エリック・ホッファー

某月某日

a0034898_23484640.jpgエリック・ホッファー自伝―構想された真実
エリック ホッファー Eric Hoffer 中本 義彦 / 作品社
スコア選択: ★★★


エリック・ホッファー「構想された真実」を読む。

どうしよう。あまり面白くなかった。この本のことを名のある読み手たちはこぞって誉めていたように記憶している。帯の裏表紙側にも 立花隆 氏評として
「彼の人生そのものが、これほど数奇な人生があろうかと思わせるほど波乱に富んでいるが、それ以上に面白いのが、彼がいろんなところで出会った、数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である。・・・・その一つ一つが、まるで極上の短編小説以上の仕上がりになっている。・・・・文章の細部にいたるまで刺激的な本だ。」
とある。
そうなのか。そう思えないのは私がまだまだ青いということなのか。悶々と悩んでしまった。
たしかに読者を悩ませるのも「刺激的な本」なんだろうけど。

帯の表側には「感動のロングセラー!」とある。他の著作も読んでエリック・ホッファーという人に傾倒していれば、感動できるのかもしれない。が、この一冊だけではどうだろうか。

今回は面白さを引き出せなかった私の負けということにしておく。

エリック・ホッファーをご存知でない方は 松岡正剛の千夜千冊『波止場日記』エリック・ホッファー を御覧いただければ参考になるかと思います。
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by beertoma | 2004-08-04 23:51 | 読書

「思想なんかいらない生活」 勢古浩爾

a0034898_23412875.jpg思想なんかいらない生活
勢古 浩爾 / 筑摩書房
スコア選択: ★★★★


全体の7割がインテリ批判。現在の日本で思想家や哲学者として流通している人を取り上げて、その思想を、ふつうに生きていく上でいかに役に立たないかという観点から批判している。漫談のような語り口調で読みやすい。面白おかしく書かれているので何度も笑ってしまった。例えば、難解なことで知られる柄谷行人の文章を引用したあとこう続く。

「何とでも呼んでくれ。どうだろうか。柄谷行人、大まじめである。自慢ではないがチンプンカンプンである。ところがランナーズ・ハイというものがあるように、これらのチンプンカンプンの文章を読んでいると、なにやらそのチンプンカンプン性にある種の快感を感じてきて、いわばチンプンカンプン・ハイに陥りそうになるのだ、ということは絶対にない。わはは。」

こういった調子でいろんな人の文章が引用され、斬られていく。その根っこにあるのは次のような叫びである。

「思想を厳かに語る者たちよ。 (中略) 「本気」になって考えてもらいたい。諸君たちにとって、「思想」とはほんとうはなんなのか。その「思想」と「俗」はどう関係しているのか。いったい誰のための「思想」であり、それはなんの役に立つのか。その俗から「思想」は「訣別」する、とかっこいいこといって終わりか。」


残りの3割は、思想のいらない生活とはどのようなものであるか、つまり、著者の考える「ふつう」の生き方とはどのようなものであるかについての説明である。この部分になるとわかりにくくなってくる。論旨が一貫していないので読みづらい。一貫しているのは著者のテンションだけである。複数のエッセイを区切らずにくっつけたような内容で、気がつけば次の話題に移っている。「ふつう」というモチーフだけが時おり思い出したように奏でられている。それを味わえということか。それとも前半で語られていた、柄谷や蓮實を読んだときのイライラを読者にも味わわせようとしたのか、とまで言いたくなってくる。

以下は、読みながら思い浮かんだことなど。

▼ 私には思想なんていらない、と言っているがなぜそれがわかるのか。あと30センチ掘れば石油が出てくるかもしれないのに。そこで引き返してどうする。あーあ。
▼ ひょっとして、今は一休みしたいだけではないのか。いつの日かごっつい思想書を出版したりして。
▼ 語り口調で笑いを入れたのも、最後の部分が雑に思えるのも、「どこまで本気で言っているのだろうか」と思わせるためか。前半の毒を中和しようとしているのか。
▼ 激しい調子の文章も多い。「無意味を意味として生きる」ということを感情レベルで納得していれば、もっと穏やかな文章で書けるのではないか。
▼ 細かいツッコミをひとつ。「TOKIOというジャニーズ系のグループ」という表現があった。「ジャニーズ系の」という修飾語句は、主として男子の顔面を形容するときに使われる言葉ではないのか。サザンオールスターズというアミューズ系のグループ、フットボールアワーという吉本系のコンビ、ちゃっきり娘という松竹系のトリオ。
▼ そういえば、ふつうが一番いいという思想は「男女七人夏物語」で池上季美子が大竹しのぶに言っていた。恋愛のことだったけど。
▼ 「ふつう」は結果としてあるもの、過去を振り返ったときにのみいえるものであって、これから先をふつうでいく、とはいえないのではないだろうか。目指すべきものではないような気がする。
▼ 自分がこの先もずっと「ふつう」であることをどうやって確認するのか。比較の対象としてふつうでないものが必要ではないのか。つまり、ふつうであり続けるためにはふつうでないものを消費し続けなければならないのではないか。右みて左みてをしないと道の真ん中は走れない。

紹介されている本も多く ブックガイドとして読むこともできるので、著者のネタを鵜呑みにせず批判的に読めば得るところが大きい本だと思った。
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by beertoma | 2004-08-01 23:50 | 読書